公開セミナー 制作者に聞く!「新型コロナの記録~記者が見つめた2020~」セミナーレポート(2023.7.8実施)
はじめに
7月8日に、公開セミナー 制作者に聞く!「新型コロナの記録~記者が見つめた2020~」と題したセミナーを開催しました。
新型コロナウイルスが感染拡大し、緊急事態宣言が出された2020年から3年。公開セミナーでは当時の社会の様子やコロナ禍に翻弄される人々の姿を取材、制作した2番組を取り上げ、前半は上映・後半は両番組の制作者によるセミナーを行いました。
前半・上映(取り上げた番組)
上映したのは以下の2番組です。
この2番組は放送ライブラリーの8階視聴ブースでもご覧いただけます。
74例目と呼ばれて ~"3密"を導き出したクラスター~(札幌テレビ/2020.4.25放送)
ザ・ドキュメント 学校の正解 ~コロナに揺れた教師の夏~(関西テレビ/2020.9.29放送)
どちらの作品も「3年前、わたしたちは新型コロナとどう向き合っていたのか」、当時の社会の様子やコロナ禍に翻弄される人々の姿を通して伝わってきました。
後半・セミナー
後半は制作者の方に登壇いただき、先ほど上映した番組について取材の苦労、今の思いなど、制作現場の生の声を伺いました。
登壇者プロフィール
村崎亜耶芽(むらさき・あやめ)
『74例目と呼ばれて』ディレクター、札幌テレビ放送 報道局 報道部 副主事 ※肩書はセミナー開催当時
宮田 輝美(みやた・てるみ)
『学校の正解』ディレクター、関西テレビ放送 報道局 報道センター 専門部長 ※肩書はセミナー開催当時
石井彰(いしい・あきら) 司会・放送作家
セミナーの様子
◆お互いの番組の感想
―― 宮田さんは『74例目と呼ばれて』を見て、どんなことを感じたか?
宮田:北海道は最初にコロナ感染が流行り、恐怖感があったと思うが、取材対象者の方が、よく取材を受けてくれたなと感じた。きっと村崎さんの人柄があってのことだと思う。番組中で名前を出して、取材に応じてくれたことをすごいなと思うと共に、どうしてできたのだろうか。その辺りを聞いてみたい。
村崎:北海道は最初に感染が広がった地域で、「全国で一番最初に(新型コロナの)ドキュメンタリーを作らなければならない」と、北海道の報道機関の責務として感じていた。しかし、放送日が決まった時点では取材相手が決まっていないという状況だった。宮田さんが仰る通り、取材を受けてくれる人は中々見つからなかったが、奥村さん(被取材者)の奥様に先にお話させていただいたところ、入院している奥村さんに電話してくれた。まずは快復が一番なので、退院後にお会いした時に初めて取材の交渉をした。奥様からお話を聞いていたからなのか、快く取材を受けてもらった。
―― 村崎さんは『学校の正解』を見て、どんなことを感じたか?
村崎:50分という放送時間を感じさせないほど、番組を見入ってしまった。ナレーションを最低限にして、ほぼ生の音で、人と話しているところを多く映すのは、コロナ禍でのドキュメンタリー制作では大変だったのではないか。宮田さんの取材相手との関わり方もあって、ああいう取材ができたのだろうと思った。「ここまで放送して良いのかな?」「放送したことで傷つかないかな?」という葛藤はあったりしたか?
宮田:(新型コロナ感染が流行し始めた)2月、3月に、報道局で言われていたのは「マスクを外して話すな」「感染が疑われる人に直接取材はするな」だった。でも、そんな時だからこそ、ドキュメンタリー番組をやらなくてはいけないと思った。最初、保育所を取材しようしたとき、防護服を着ると言っても断られるという状況だった。取材先の中学校は、校長先生の奥様と元々知り合いということで、紹介してもらい、(緊急事態宣言で)生徒ですら入れなかった学校での取材を許可してもらった。
石井:新型コロナ感染拡大の報道は、テレビ・ラジオに関わる者にとって、大きな出来事だった。自分たちも“当事者”であったからだ。私たちは安全なところにいて、取材をしに行くのではなく、自身も社内で感染が出たり、「テレビは来ないでくれ」と言われ、メディアに対して敵意を感じることもあった。
◆報道現場のとまどい
―― 人に伝える役割をしていく中で、不安に駆られることはありましたか?
村崎:放送されるまで、奥村さんの名前を出してよいのか、常に迷いがあった。また、取材中に奥村さんがお寿司を握って、ご厚意でスタッフに振舞ってくれた際に、ほんの少し躊躇してしまう自分がいた。(コロナ感染による)差別をなくしたいと思いで取材をしているのに、そういう気持ちが自分の中にあった。世の中の迷いや、差別というものは、大半がちょっとした“ゆらぎ”なんだなと感じた。だからこそ、顔も名前も出して、ストレートに取材したいと心に決めた。
宮田:葛藤というか、何が正解なんだろうという気持ちがあった。番組中にマスクをしていない男の子がいたと思うが、ある日、彼にカメラを向けて撮っていたら、カメラを見て、頷いてマスクをしたことがあった。「もしかして、私たちがプレッシャーをかけてる?」と感じた。当時は「マスクをするのが善だ」と思っていたが、今になって考えてみると、そうではなかったのではないかと思う。
取材の過程で、村崎さんと宮田さんは「ゆらぎや迷いに直面する瞬間があった」と話します。そうした面について、石井さんは「そうした“ゆらぎ”や迷い、葛藤が番組の中に出てきて良いのではないか。事実とどう折り合いをつけていくかということが、この二つの番組には溢れていた。」と評しました。
◆コロナ禍での取材を振り返って
取材先でも、局内でも、昨日の正解が今日の不正解になるということが当たり前になっていたコロナ禍。そんな中での取材を振り返ります。
村崎:一個一個の事象に報道の責任はなかったのか?伝え方は会っていたのか?と今でも考える。ゆらぎのないものにするのは辛かった。その一方で変化への対応が記者として勉強になった。見方が広がった。コロナ禍に報道記者でいられたことは幸運だった。
宮田:30年のスパンで起こることが、この2、3年間に凝縮されていた。歴史的に見て「あの時こうだったな」ということが短期間に起こったので、自分の中での価値観が崩壊した。今後は報道した内容について、検証が必要でないか。
今回の新型コロナ感染拡大は、震災のように特定の地域の人だけでなく、みんなが当事者で、コロナと向き合っていた。今までにない出来事だったと石井さんは語ります。この言葉を受けて、宮田さんは「いつもと違う理解のされ方をしていたので、いつもと違うような伝え方をしていた。そういう意味では、どちらも経験できて良かった。」と振り返ります。未曽有の事態に常にゆらぎや迷いの気持ちを持ちつつ、取材者に寄り添いながら現実に向かい合ってきたからこその言葉だと思いました。
他にも、コロナ禍ならではのドキュメンタリー制作の工夫や、コロナ感染症を取材して見えてきたこと、テレビの役割など、いろいろな角度から1時間たっぷりとお話を伺いました。
セミナー参加者からは「タイプの違う二つの番組だったが、どちらも素晴らしく、直にお話が聞けて良かった」、「厳しい状況下でしっかり取材して、中学生たちが頑張っている姿に涙が出ました」、「 “ゆらぎ”という言葉が印象に残りました。ドキュメンタリー制作者の視点がわかり、勉強になりました」という感想が寄せられました。
セミナーの模様はYouTubeで公開していますので、ぜひご覧ください。