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第17回人気番組メモリー「パック・イン・ミュージック」開催レポート

4月29日に第17回人気番組メモリー「パック・イン・ミュージック」を開催しました!

そもそも「人気番組メモリー」とは――ドラマを取り上げる「名作の舞台裏」に対し、教育・教養、エンターテインメントなど、様々な分野の名番組を取り上げる公開トークショーです。

第17回となる今回は、1967年から82年まで、TBSラジオで15年間放送された伝説の深夜番組『パック・イン・ミュージック』を取り上げました。

ゲストに、木曜パック(水曜深夜)のパーソナリティーを務めた、きたやまおさむさん(1969年3月~71年9月)と小室等さん(1974年4月~9月)を迎え、中高時代に熱烈な番組リスナーだった鈴木順さん(元TBSアナウンサー)と、小室さんがパーソナリティーを退かれた直後に生まれた外山惠理さん(TBSアナウンサー)という、世代の異なるお二人に司会進行をいただきました。

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パック・イン・ミュージックの「パック」って??

トークショーの中では、番組立ち上げ時のディレクターの一人であった、熊沢敦さんによる証言映像も上映されました。

番組名は、ウィリアム・シェイクスピア作の喜劇『真夏の夜の夢』に登場する、いたずら好きの妖精「パック」が由来でした。

熊沢:妖精「パック」のように、(番組中)ちらっと出て消えるイメージ。当時海外パッケージツアーの「ジャルパック」が発売され始めた時期でもあり、(ひとまとめの意味と)勘違いされることが多かった。

番組が誕生した1967年当時、テレビは若者向けを意識しておらず、団塊の世代の10代の若者の趣向には合っていなかったそうです。

熊沢:団塊の世代が受験期を迎え、勉強部屋にこもった。トランジスタラジオが安価で手に入り、勉強部屋にラジオがあった。もう一つの主戦場は若者の勉強部屋だと思った。

ちなみに番組ファンの鈴木さんも、手作りのラジオで深夜放送に耳を傾けていたとか?!

「パック」=もう一つの国

歴代番組パーソナリティーは、そうそうたるメンバーが名を連ねていました。

鈴木:きたやまさんの後に吉田拓郎さん、南こうせつさんを経て小室さんへ
バトンタッチ。フォークスターのラインナップができていた

小室さんは就任時を振り返り、

小室:担当するまで番組を認識していなかった。制作主体が変わったこともあり、これまでの番組伝統を引き継がなかった。ノーギャラでバンドメンバーを呼んだり、自宅で録音した幼い自分の娘の声をオンエアしたり、ほとんど手弁当だった

バンド活動で忙しい日々を過ごしていたため、ラジオとは無縁だった小室さん。しかし、実際に自分がパーソナリティーを務めてみると

小室:深夜番組に出たがる人が多く、飛び入り参加もあって面白かった

小室さんよりも早くパーソナリティーに就任したきたやまさん。就任当時は、番組の放送エリア外の関西在住の医学生でした。

きたやま:週1回、テレビ出演(『ヤング720』)のために東京に来ていた。その夜に(木曜パックを)入れられた。関西からぽっと出てきてすぐ帰る、トリックスター的なかき回す存在は「パック」のイメージと合っていたのでは?

小室さんから見て、きたやまさんの木曜パックの印象は、

小室:ナチチャコ(野沢那智さん・白石冬美さん)パックはエンタメだったが、きたやまさんのパックは、感じていることを提供するようなイメージ。リスナーからのハガキを読むことが中心だった

その小室さんの言葉が表すように、きたやまさんの木曜パックは、リスナーとの対話がメインで、若者の自殺願望や性の話題を度々扱ったようです。

当時は、学生運動が起こるなど、若者が社会を動かす力をもっていた時代。
パックも例外ではなく、
きたやま:スタッフは同世代で音楽好きだったので、意見が一致していた。もう一つの国を作るくらい勢いで、一緒に手作りしていた。

「なにか起こっても責任をとる!」と宣言する心強いプロデューサーの下、「パック国」を熱いリスナーと共に建国していた頃を懐かしんでいました。

ハガキ以外にも、アマチュアバンドからカセットテープが届き、そこから新しいコーナーが生まれたり、番組で流したことがきっかけでデビューにつながったり、番組の内容が書籍化されることもあったといいます。

きたやま:深夜放送がある意味、若者の文化の登竜門になっていった。そうした回路を作ってもらったのは良かった

と、当時の深夜放送カルチャーを振り返りました。

話題は当時の音楽業界へ・・・

小室さんは「六文銭」で関東を拠点に活動の場を広げ、一方のきたやまさんは、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』が関西のラジオ局から徐々に人気に火が付き、300万枚に迫るヒット作となるなど、東西で各々活躍していたお二人。
しかし、野外フェスで乱闘が起きるなど、関東と関西のフォークソングの間で対立が表面化。それぞれの立場で思うところがあったようで・・・

外山:小室さんも関西を気に食わないと思っていたんですか?
小室:関西が僕を気に入らないということは明らかに感じていた
外山:きたやまさんが悪いってこと?!
ここで外山さんがストレートな質問で切り込み、会場を笑いに誘いました。

きたやま:『帰ってきたヨッパライ』は関東に対するアンチテーゼだった。デビューするために様々な条件を提示されたり、ラジオでは紹介できてもテレビでは紹介できないなど様々な分断があったり。抑圧されていたものが、『帰ってきたヨッパライ』で爆発した

小室:アメリカのフォークソングに刺激を受けて、反戦歌を歌っていかなきゃと思う間もなく、関西でフォークソングムーブメントが起こった。関西に全く先を越されたと思った。

と、東西それぞれの立場から、当時の想いを語りました。

そんな東西のフォーク文化の違い、テレビ・ラジオの分断などがあった中でも、ラジオの深夜放送は全ての受け皿となる、みんなの居場所のような存在であったようです。

当時のフォークソングを取り巻く話題で盛り上がった

70年代に入り、フォークソングがメジャーな存在になるにつれ、取り巻く環境が大きく変化していきました。
当初は制作~販売を全てを自分たちの手で行っていたフォークソングも、販売規模が拡大し、自力での管理が困難になったことで、外部の手が入り、商業的な方向に歩み始めました。

鈴木:フォークもある時からプロの作詞家の歌を歌ったり、メジャーのレーベルでデビューしたり、商業主義に魂を売ったという声が多くなった。
きたやま:”歌詞のような人生を送ろう”と、言行一致に生きようとする葛藤はあったものの、生き残るにはお金も必要だしで、辞め時を見極めることが難しかった

小室:ずっと売れたいとは思っていたが、こんなことまでして売れたいか?と思っていた。(商業的な流れは)「六文銭」の解散にもつながった

その時代、フォークソングシンガーがそれぞれに葛藤を抱えながら、次のステージに進んでいく様子が、赤裸々に語られました。

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きたやまさん・小室さんによる音楽業界の裏話や、元リスナーの鈴木さんの思い出話があり、そして当時を知らない世代である外山さんがそこに切り込んでいく場面もあり、ここに書ききれないほどの内容が盛り沢山のセミナーとなりました。

放送ライブラリーでは「パック・イン・ミュージック」や登壇者の関連番組も多数公開しています!
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